人のふり見て我がふり直せ
昨日美容室に行ってきた。
そこで担当してもらった美容師さん。
『心ここに在らず』。
何かあったの?って聞きたくなるくらい(^^;)
常に真顔で怖かったし、言葉の一つひとつに全然心がこもってなくて声にも覇気がなかった。特に後半は対応も雑で、嫌な気持ちになった。
本人はそんなつもりではなかったとしても、そう伝わってしまったらそれまでで。仕事なら、なおさら。技術も大事。けど結局は人と人やなぁって思った。
ただ、自分もいっぱいいっぱいになってる時は笑顔が抜けてるし、嫌な思いさせてることもあるかもっていい振り返りになった。
高い勉強代だったな(´-`).。oO(笑)
らくだメソッド
通塾し始めて三ヶ月が過ぎた。
現在していることは主に、
・算数(いずれ数学になる)プリントを毎日する
そのことに加え、
・ブログを毎日更新し振り返りを行う
ことである。
先日ある人から『それって自己啓発?』と聞かれた。
ん?自己啓発…
…自己啓発???
という気持ちになり違和感を覚えたが、自分でもその理由がよくわからず、説明が出来なかった。
しかし、その答えが昨日分かった。
ただ、それを説明することは出来ない。
やってみなければわからないからだ。
ただ言えることは、
・この取り組みは、自己啓発ではない。
・むしろそれとは真逆である。
ということである。
ただ、確かに結果的には自分を見つめ直すことであったり気付きを得ることもあるので、その点ではそのようにも取れるかもしれない。だが違う。明確に違う。
自己啓発というと何か目的があってそのために行動するということになると思うが、この取り組みはそうではない。そもそも目的(またはゴール)などない。
計算プリントなどはその良い例で、『ただ淡々とやること』の練習であったりするからだ。
間違っても、計算プリントを間違わずに行うことや毎日行えるようになるということが目的ではない。何度も述べるがそもそも目的なんて無いのである。
それに毎日続けることなんて『できない』。
プリントに関しては合格点に達することも含めたら余計にできない。どんなに頭や要領のいい人であったとしても、いつかできない日が必ずやってくる。
では『できない』ことから何をみていくのか。
何故『できない』のか。
どうしたら『できる』ようになるのか。
自分を卑下したり過小評価するでもなく、反対に自分はできると過大評価するでもなく、ただ淡々と自分を見つめ直す。
『ただ淡々と』。
そう思っていたのに、やはり『できない』自分を責める自分がいたり“あれ?自分はなんのためにやっているんだっけ?”と目的を見出そうとしている自分がいることに気付いた。
教育や仕事においても『できること』『わかること』が良し(善し)とされる風潮が根強くある。それも正しいといえば正しいと思う。
しかし『できなければならない』『わからなければならない』ということに囚われてしまうと、それが叶わなかった際必要以上に自分を責めてしまう。追い込んでしまう。少なくとも私の場合は。それが嫌だった。
正直、目的があった方が楽である。
○○を得たい・○○になりたいといったような。
明確な目的があって、そのためにどれだけの時間やものがいるから、ああしようこうしようと“計算”の仕様もある。
けれどこの取り組みは、例えば何分以内に終えるといった目標を定めて、そのためにああするこうするといったことはできても、目的地が無いから行き先を決められないのだ。孤独な作業の中に、自分を見つめ直していくしかないのである。それはある意味、とても厳しいことである。
この話を聞いて、
“ん?算数や数学のプリントなら終わりがくるんじゃないの?”と思われる方もみえると思うけれど、そうではない。
単元としての“終わり”はあっても、そこから更に極めたくなってくる。その意味で終わりはないのである。
なにが言いたいの?
なんのためにそんなことするの?
意味がわからない
そのように思われる方もみえると思う。
けれど、身も蓋もない言い方になってしまうかもしれないけれど、そもそも意味なんてあるのだろか。生きること自体に目的なんてあるのだろうか。
そのように捉えると、ただ淡々と続けていけることの尊さを感じるのである。
こんなはずでは
ここ数日、黒豆がマイブーム。
私が食べているのは、黒豆に砂糖をふりかけてあるだけのシンプルなもの。甘過ぎるのは好みではないので(糖質も気になるし)、出来るだけ砂糖まみれになっていないものを選ぶ。
これまでの自分の心身の傾向として、豆のような素朴な味を欲している時は調子が良く、ポテトチップスやスイーツのようなジャンキーなものが欲しくなる時は調子が芳しくないという傾向があると思っていた。
けれど心身の調子がそこまで芳しくない今でも、素朴な味に惹かれている。というか本当はそれを欲していたのかもしれない。ジャンキーなものを食べるからますます調子が悪くなるという悪循環に囚われていたのかもしれない。
上記のことは情報や常識に囚われた頭の中だけで考えていたことで、心身は素朴なものを欲していたのかもしれない。
例えば『朝食は食べた方が身体にいい』とはよく言うけれど、身体が欲していない時にまでそれに従っていてはそれこそ調子が芳しくなくなってしまうことになりかねない。それでは本末転倒である。そんなこととも繋がる気がする。
頭で考えてしまうとすぐに『○○だから〇〇した方がいい』という“べき論”に惑わされがちになるけれど(現代社会で生きていくにはそれが必要な時も多々あるとは思うけれど)…
もっと原始的に、心身の声に耳を傾けて過ごすことを意識的に行っていきたい。
…などと書いてみたものの。
うん、まとまってない。
何が言いたいのか自分でもわからなくなってきた。なんか違う。と思って文章でも読み返す。
でも『なんか違う』いや、『なんか本当に言いたいことがあと一歩言えてない気がする』という抽象的な感覚しか浮かばない。
実体験に基づいていて実感として思っていることであるにも関わらず文献を拾い漁ってコピペしたような気持ちになってしまっているのはなんでた???
けれど、せっかく書いた文章を載せないのももったいない。 し、それでは何もしていない(この場合で言うとブログを更新していない)ことと同じになってしまう。これまで幾度となくそんなことを繰り返している。それは避けたい。そもそもこの文章も書き始めたのは昨日の夜。いやだ、それは避けたい。
というわけで腑に落ちないけれど、未完成のまま迷っている姿も含めてそのまま掲載することとする。
そして後々見返す。一ヶ月後に振り返る。
後で恥ずかしくてギャーってなるのを覚悟しよう。
うーん…。
一つのテーマに絞って書いてはみるものの。
ディテールに凝り過ぎないようにと努めるものの。
この内容には結論から書くという手法は適さないと思い起承転結を心がけて書いたけれど…
誰にどう伝わるかは別として、とにかく納得がいかない。
まあ納得してしまったらそれで終わっちゃうしそれはそれでいいのかな(笑)
なんだろう?区切りが付けられていないと言った方が正しいかな。
自分の中にある気持ちと入ってくる情報の整理が不充分なんだろうなと。
よし、意を決して載せよう。
まあいいさ、こんな時もあるさ(笑)
それも今現在はこんな状態だというだけ。
物事は、現状は、変わるし、変えられるし。
黒豆の話から妙に飛躍してしまったなぁ。
こんなはずでは。
iPhone 7には
編集用の画面と公開用の画面があるのね。
5sには無かったよ(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾ …たぶん。
文字化けしてる?!と思ってた_:(´ཀ`」 ∠):
自分で自分に『は〜〜〜』と深いため息をつく。
これも気付きかな〜〜:;(∩´﹏`∩);:
やっと携帯かえました(๑>◡<๑)
さらば!!ひもじかった16㎇ライフ_:(´ཀ`」 ∠):
嬉しすぎてニヤニヤが止まらない:;(∩´﹏`∩);:
よく晴れた七夕って日も覚えやすくていいよね🎋
織姫さまと彦星さま、逢えて良かったね🌌╰(*´︶`*)╯♡