らくだメソッド
通塾し始めて三ヶ月が過ぎた。
現在していることは主に、
・算数(いずれ数学になる)プリントを毎日する
そのことに加え、
・ブログを毎日更新し振り返りを行う
ことである。
先日ある人から『それって自己啓発?』と聞かれた。
ん?自己啓発…
…自己啓発???
という気持ちになり違和感を覚えたが、自分でもその理由がよくわからず、説明が出来なかった。
しかし、その答えが昨日分かった。
ただ、それを説明することは出来ない。
やってみなければわからないからだ。
ただ言えることは、
・この取り組みは、自己啓発ではない。
・むしろそれとは真逆である。
ということである。
ただ、確かに結果的には自分を見つめ直すことであったり気付きを得ることもあるので、その点ではそのようにも取れるかもしれない。だが違う。明確に違う。
自己啓発というと何か目的があってそのために行動するということになると思うが、この取り組みはそうではない。そもそも目的(またはゴール)などない。
計算プリントなどはその良い例で、『ただ淡々とやること』の練習であったりするからだ。
間違っても、計算プリントを間違わずに行うことや毎日行えるようになるということが目的ではない。何度も述べるがそもそも目的なんて無いのである。
それに毎日続けることなんて『できない』。
プリントに関しては合格点に達することも含めたら余計にできない。どんなに頭や要領のいい人であったとしても、いつかできない日が必ずやってくる。
では『できない』ことから何をみていくのか。
何故『できない』のか。
どうしたら『できる』ようになるのか。
自分を卑下したり過小評価するでもなく、反対に自分はできると過大評価するでもなく、ただ淡々と自分を見つめ直す。
『ただ淡々と』。
そう思っていたのに、やはり『できない』自分を責める自分がいたり“あれ?自分はなんのためにやっているんだっけ?”と目的を見出そうとしている自分がいることに気付いた。
教育や仕事においても『できること』『わかること』が良し(善し)とされる風潮が根強くある。それも正しいといえば正しいと思う。
しかし『できなければならない』『わからなければならない』ということに囚われてしまうと、それが叶わなかった際必要以上に自分を責めてしまう。追い込んでしまう。少なくとも私の場合は。それが嫌だった。
正直、目的があった方が楽である。
○○を得たい・○○になりたいといったような。
明確な目的があって、そのためにどれだけの時間やものがいるから、ああしようこうしようと“計算”の仕様もある。
けれどこの取り組みは、例えば何分以内に終えるといった目標を定めて、そのためにああするこうするといったことはできても、目的地が無いから行き先を決められないのだ。孤独な作業の中に、自分を見つめ直していくしかないのである。それはある意味、とても厳しいことである。
この話を聞いて、
“ん?算数や数学のプリントなら終わりがくるんじゃないの?”と思われる方もみえると思うけれど、そうではない。
単元としての“終わり”はあっても、そこから更に極めたくなってくる。その意味で終わりはないのである。
なにが言いたいの?
なんのためにそんなことするの?
意味がわからない
そのように思われる方もみえると思う。
けれど、身も蓋もない言い方になってしまうかもしれないけれど、そもそも意味なんてあるのだろか。生きること自体に目的なんてあるのだろうか。
そのように捉えると、ただ淡々と続けていけることの尊さを感じるのである。